*ミャンマー人の夫との出会いから、はじめてミャンマーを訪れた日々を振り返るシリーズです*
日本を旅立ち、当時はヤンゴンへの直航便はなかったのでタイで数日遊び、ヤンゴンに向かいました。
バンコクからは50分弱のフライトですが、飲み物はでるは、食事はでるは、アライバルノートを書かなければいけないはで、非常に忙しい。
しかも、あのときの飛行機はひどく揺れて、もう終わりかと思うほど怖かったので、到着したときは心身疲れはてていました。
20年前のヤンゴンの空港はいまよりずっと質素で、日本で例えると、選挙の会場のような、こじんまりとした雰囲気でした。
機械化されていなかった(と思うので)手作業などで確認などをするもんですから、待つは待つは。
外国人は10人いるかいないかの列でしたが、30分以上待たされたような。
しかも、外国人とミャンマー人のカウンターは違うので、さらに不安は増します。
しかも、ミャンマーの事務員さんは、「ホントにあなたミャンマー人??」と思うほど無愛想。「ここ笑顔の国じゃなかったの?!」と思いつつも、仕事で大変なんだろう、と気を収めます。
無事入国すると、今度は両替です。
悪名高きFECです。外貨獲得のために設けられた制度ですが、外国人旅行者は、ミャンマーに入るとき、兌換チャット当時は300ドル両替しなければなりませんでした。
まあ外にでれば両替商がいるので、そんなに損することなくチャットに両替できるのですが、でも、ガタガタ飛行機や、入国審査の疲れや、コワいミャンマー入管事務員さんらのおかげで、動揺がマックスになっていた私は、FEC両替カウンターのコワい事務員に「300ドル」と言われ、崩れました。
どーっと涙が出てきて、しゃくりあげるほど(^^;) いい時に泣けたものです(笑)
なんと言い訳したかよく覚えていませんが、300ドル持っていない、とか、FECの話など聞いていないとか言ったような気がします。
そしたら、「はい、はい、はい、じゃあ仕方ないので200FECでいいです」と負けてくれました。
これからミャンマーに行こうとする方は心配ありません。FECの制度は2013年に廃止になりました。
空港も2007年にヤンゴン国際空港がオープンして、キレイになりました。
入管の手続きも少しはスムーズになりました。
それでもまだ列ができて、結構時間がかかるので、すいすい通過したい人は飛行機が到着してゲートが開いたら、一目散に入管に向かうことをオススメします。
荷物を受け取り(荷物がまわってくるレーンもなかった気が…)、外にでると、満面の笑顔のゾゾのご家族の皆さんに迎えられました。
今は亡きお父さん、お母さん、お姉さんご家族、妹さんご夫婦、もう1人の妹さん、それからご近所さん、幼なじみの皆さん。
たくさんの人が、日本で一旗揚げて帰ってきた(だろうと思う)ゾゾを歓待します。
私はきちんとごあいさつをした記憶がありません。
ただ、ミャンマー語がわからず、FECの一件で泣きはらして目や鼻を赤くしている私の手を取って、緊張をほぐすようにお母さんがにこにこ笑いかけてくれていたのを覚えています。
ゾゾのお母さんは、私にとってミャンマーのおおらかさや温かさを象徴する人で、山あり谷ありでしたが(私の勝手な山と谷)、こんな人になりたいと思えるような女性でした。
さて、私たちは、乗用車やトラックの荷台に乗って、ゾゾが用意していたアパートに向かいました。実家から歩いて10分ほどのところにある新居♡で、ゾゾが日本で働いたお金で買ったという家です。
今とは違って車の数も圧倒的に少なかったので、まるで高速道路を走るような勢いのスピードに驚きました。しかも車の中に蚊が飛んでるし。
30分ほどで到着し、バタバタと車から荷物を下ろし、しばらくワイワイ話したあと、もう時間が遅かったのでみんな帰って行きました。
私はミャンマー語ができなかったので、ぼーっと突っ立っていた気がします。
最後まで残っていたお母さんと妹さんに手を引かれ、家の2階に案内されました。
階段を上がると、目を疑うようなど派手なベッドが、目に飛び込んできました。
ピンク色の天がい(蚊帳)と、ベッドマットには赤い龍が印刷されたドピンクのシーツ…。
ここで寝るの~~~?
To be continued.